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Sammy(サミー、1969年10月26日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の歌手、ボーカリスト、ミュージシャン。自身のオリジナル活動の他にジャニス・ジョプリンに扮する「座椅子JOPLIN」やジョニ・ミッチェルに扮する「草履ミッチェル」などアート・ロックな女性ボーカリストたちのトリビュート活動も行っている。現在、フリーのボーカリストとしてスタジオ、ライブなどで幅広く活躍中。子供の頃に影響を受けた音楽はビートルズ、山口百恵、オフコース、チューリップ (バンド)、松任谷由実など。 また母方の祖母が戦国期の京都の豪商「角倉了以」の末裔である。〔Sammyのうばじゅ便 2014年01月28日 〕。 作家ネームは有馬寿美(ありまひさみ)。またイラストレーターとしての顔も持つ(=活動名:うばじゅびん)。 == 来歴 == 幼少時からものを作ったり何かを表現したりすることが大好きで、工作、絵画、ピアノ、また読書感想文や童話暗唱など、多種多様なコンクールに出場(出品)していた。 小学校6年生のとき、TNCテレビ西日本主催の勝ち抜きのど自慢大会に出場して見事優勝、グランプリ大会では準優勝を果たす。 そのとき審査員だった三浦友和に「歌がうまいですね」とほめられて、将来は歌手になろうと決心する。 1988年鹿児島県立甲南高等学校を卒業、鹿児島大学(理学部数学科)へ入学。鹿大フォークソング同好会へ入部し九州を中心にバンド活動を展開。MBC南日本放送テレビ番組「どーんと鹿児島」で中継ADのアルバイトをしていたとき番組ディレクターから突然リポーターに抜擢されるのだが、そのなりゆきリポート具合が意外にも好評だったため番組終了時までリポーターとして活躍することになる。 1991年イギリスのボーンマスへ語学留学。帰国後は鹿児島大学に退学届を提出、東京で新生活をスタート。 イギリス留学前に勤労学生として契約入社歴のあった日本アイ・ビー・エムに社員として正式入社するが、1年足らずで退社。 1993年シンガーソングライターとして音楽活動を開始。都内ライブハウスを中心にキーボードの弾き語りを行う。〔「Sammyのドレミエピソード 」〕 六本木の某ナイトクラブで弾き語りのアルバイトをしていた時、極度に露出度の高い衣装の着用を強要され、拒否をしてクビになる。そのときお店の常連だったあるお客さんの紹介で淡谷のり子事務所のスカウトを受け、某アイドルのモノマネを仕込まれるが、本人の顔に似せるために整形手術をしろと要求され、拒否をしてクビになる。その後はしばらくゲーム音楽やカラオケのガイドボーカルなど歌入れの仕事で生計をたてながら、自身のバンドでアルバムを自主制作、発表。 またこの頃から座椅子ジョプリンを始動。当時のコピーバンドブームに乗っかり、コピーバンドイベント「アートロックナイト」の立ち上げに主要メンバーとして参加。1996年日清パワーステーションで開催された「アートロックナイト2days」では初日のトリをつとめる。〔「Sammyの旧・旧うばじゅ便 」〕 1995年オーディション「一曲千金」にて最優秀賞を受賞。フジパシフィック音楽出版と歌唱・ライター契約を結ぶ。依託業務を含めて年間200曲〜300曲の仮歌を歌唱。1996年フジパシフィック音楽出版の専属作家である山崎燿(山崎利明)とユニットef collageを結成。1997年パイオニア・ミュージック・ワークス株式会社とアーティスト契約。1998年パイオニアLDCよりメジャーデビュー、全国的にキャンペーンを展開。 2000年メジャーでの音楽活動を休止。執筆やイラスト業に力を入れるようになるが、2001年東映アニメ「デジモンテイマーズ・冒険者たちの戦い」挿入歌「トモダチの海」の歌唱をきっかけに活動を再開。〔「Sammyのドレミエピソード 」〕 2013年10月にはef collageのデビュー15周年記念シングルとして、ef collageの未発表曲「Tell me」と「異国の街では」を当時の音源のまま配信リリース。〔「フジパシフィック音楽出版公式サイト 」〕 2015年3月、Sammyのソロとしてミニアルバム「テイク・ゼロ/Sammy」をiTunesにて配信リリース。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「Sammy (歌手)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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